「ノートルダムの鐘」レポ第二弾行きます!
とにかく手元にあるメモがひどいことになっているとので、書いているうちに色々思い出し、公開後に追記することもあると思いますが、どんどん進めていきたいと思います。
まず最初に、ネタバレ考慮が全くないのと、物語、演出分析はあくまでも個人的意見ですので、参考程度に見てくださいね。
完全に個人的見どころレポみたいになって行くと思います。見れば見るほどお気に入りのシーンが決まってきてそこばかり見てしまうので、やはり偏ったレポになると思いますが、二回目以降の観劇参考にするのもよし、復習に利用するのもよし、ネタバレが大丈夫な方は、観劇前の予習にでも使っていただけたらと思います。また、数か所セリフを引用している箇所がありますが、記憶は完璧ではないので、間違いがある可能性もありますのでご了承ください。
まず開幕前の舞台上の演出についてです。舞台に垂れ幕はなく、劇場の中に入ると、セットのほぼ全容をみることができます。下手奥から上手の方へ斜めに白い光が差し込むような照明があり、それはまるで、ノートルダムのチラシの雰囲気をそのまま再現しているかのようで、開幕前から、劇場は物語の世界を表現しています。また、舞台のせりの部分に、番号が中心から数字が上下(かみしも)に増えるようにギリシャ文字で表記されているのですが、いわゆるゼロ番といわれる部分、度センターに表記されているのは、数字ではなく、「ἈNΆГKH」という宿命という文字が刻まれています。これは原作の冒頭でユゴー氏が、この不思議な言葉によって「ノートルダム・ド・パリ」という物語が生まれたとはっきり述べている重要なワードであり、今回のミュージカル作品がこの不思議な言葉をきちんと意識し、そして原作に寄り添って上演されているという証にも近いのではないのでしょうか。
さて、本編についてですが「ノートルダムの鐘」は全体として観る側に語り掛ける物語になります。誰一人、キャラとして舞台には立っていないのです。全員が観る側に語り掛けてくる狂言回しのような存在であり、最初の「ノートルダムの鐘」のナンバーで全員(カジモド以外)が集結しますが、誰一人そこに誰かとして立っているわけではありません。
初めてキャラクターとして立つのが、クロード。
「クロード・フロロー氏の説教を聞きに来たのだ」
とクロードは自分で言います。
ここで一つ確認しておきたいのが、初めて名前が出る際に、自分で名前をいう人物が多いということです。このクロードもそうですが、のちのジェアン、フィーバス、クロパン、アフロディジアス、ルイ11世は初登場の際に自分で名前を言いながら、上に羽織っている灰色のローブ?を脱ぐ演出が多いんです(フィーバスは少し例外的。詳しくは別記事で)。そうでないキャラとの違いはまだ分析できてはいませんが、自分で名乗って登場し、そこにキャラとして存在し始める。これは「ノートルダムの鐘」の特殊な舞台設定故の演出だと思います。また、キャラによっては、名前を呼ばれるとローブを脱いで、そこに存在し始める場合もあります。カジモド、エスメラルダ、大聖堂警備隊がそのような登場になります。これについてもそのシーンになれば詳述いたしますね。
話を戻しますが、ここでクロードは説教を始めます。クロード・フロロー大助祭として。時間軸としては道化の祭りの朝、1月6日の朝になります。彼の説教の最後には、
「忘れてはならない。我々は皆、生まれながらにして罪人だということを」
このセリフ、のちのクロードの信仰心と軸の考えを一番最初に示す言葉だと私は考えています。クロードは本当に真面目なんです。真面目ゆえに大聖堂での教えをどこまでも厳しく、自分に課しているのです。このクロードの信仰と価値観ははまたこの記事内で重要な箇所があるのですこし頭の片隅に置いておいてください。
ここからいったん物語の時間軸が過去に戻ります。私の予想では、約30年前くらいかと。
「遥か昔ここで始まる物語 ある日孤児の兄弟二人引き取られた」
と始まり、クロードとジェアンが名乗りながらローブを脱ぎます。この時の二人は引き取られてから一年経ったか経っていないかくらいかと。二人の会話からして、大聖堂での生活に慣れた様子ですし、ますおクロードだと、ここでとても声を若々しく歌い上げて差別化を図っています。私の考えではこの時、クロード50-30で20歳。ジェアン40-30で13歳くらいだと考えています。というのも、原作小説の方でも結構な年の差兄弟であり、劇団四季の公式オーディション情報でクロードの年齢設定が50歳だったため、このように予想しています。
引き取られたとき、ジェアンはまだ10代で、クロードはそれなりに世間のことがわかってくる年頃…ジェアンを世間から守るためにどれだけの苦労をしてきて…そして大聖堂という安心な場所にようやくたどり着けたのか…と見えない二人の物語を想像すると心が締め付けられるようですし、クロードがのちに「弟を愛していた!」といい、カジモドにも「世間は残酷だ」と外に出ていくことを止める説得力もとてもあるのですよね…この頃、クロードは冷たい世間から、幼いジェアンを必死に守り、ひどい仕打ちも受けていたのだろう…と。
さて、大聖堂に引き取られてから、3年ほど経って、ジェアンが”尊い教え”を破ってしまいます。この”尊い教え”なのですが、このとき、ジェアンは酒を金と交換して受け取り、食いつくように飲み始めるのですが、私は教えを破ったというのはこの酒の件ではないと思うのです。ここで破った行為とみられるジェアンの行動は以下の三点です。
・お酒を飲んでしまったこと
・夕方のミサに出なかったこと
・ジプシーのフロリカを聖域に連れ込んだこと
さて、ここで”尊い教え”を破ってしまった行為とはどれなのか…そこを考えるうえで注目したいのが、クロードとジェアンが初めて登場したときの、こんなやり取りです。
「兄さん、一緒に街へいこう!」
「ジェアン、お前は聖書を勉強しないと」
「いや、兄さんと一緒に酒場へ行くんだ!」
「帰りが遅くなっても、もうかばってやらないからな」
「いいや、かばってくれるさ!兄さんは僕を愛してるから!」
クロードは酒場にいくジェアンを決して必死に、無理やり止めることはしていません。むしろ、このやりとりからも、ジェアンが酒場に遊びに行き、帰りが遅くなってしまい、神父様に怒られる状況に陥ったとしても、クロードが毎回何かしらかばって守ってあげていたのだろうということが推測できます。となると、酒場に行くことをクロードがそこまで問題視していないということは、あまりよくはないことだとしても、まだ目をつぶることができるレベルだということです。そこで私が考える、”尊い教え”を破る行為…それはジプシーのフロリカを聖域の中に連れ込んでしまった行為のことなのだと思います。
ここでキャスト別の見どころをいくつか紹介。以上のシーンで芝清道さんのクロードだと、ジェアンの頬に触れる仕草をするんです。開幕したばかりのころはこのような仕草はなかったのですが、兄弟間での愛情が増していっているのか、こんな動きが2月頃から見られるようになりました。本当に仲のいい兄弟をここで観ることができます♪
また、「かばってくれるさ、兄さんは僕を愛してるから!」というところで、ジェアンはクロードの頬にキスをするのですが、このキスと同じようなことをあるキャラからあるキャラへとするシーンがあります。二幕の内容になるのですが、エスメラルダから、カジモドへのキスです。詳しくは該当シーンで述べる予定ですが、このジェアンの「かばってくれるさ」という言葉を頭の片隅に置いておくと、二幕の冒頭のシーンでの関連性を感じて、また深みが増すこと間違いなしなんです。
そして、上記のシーンのあと、ジェアンの歌う歌詞に以下のような部分があります。
「ジェアンは遊びが大好きで勉強嫌い」
ここの勉強嫌いというところで、ダブルキャストの佐藤圭一さんと宇龍真吾さんだと全然違う動きをしてくれます。宇龍さんジェアンのときは、ここで両手をブラブラとふるので、可愛いです♪
またお酒を飲み干すところでも、宇龍さんは口でボトルの栓を抜きそのまま飲み干し、佐藤さんだと酒を飲んだ後の目つきがまた変わってすごいです←語彙力済みません(笑)
全体的に、佐藤さんジェアンは思慮深く、少し落ち着いた雰囲気、宇龍さんジェアンはワイルドだけど根は優しい、そんな雰囲気をまとっているイメージです。
さて、”尊い教え”を破ってしまったために、大聖堂を追い出されてしまうジェアン。ここでクロードは
「数年の間、ジェアンからの頼りはなかった」
といいますが、CD版だと7年といっているので、ここで7年の時間の経過があるはずです。そしてある日手紙がクロードのもとに届き、その差出人はジェアン。クロードは人目を忍び、ジェアンに会いに行くのです。ここでこの計算だと、クロードは30歳、ジェアンは20歳ということになります。また、年齢分析の助けとなるのが、ジェアンのセリフ。
冒頭の、孤児が引き取られたと語られる部分でのジェアンの一人称は、「僕」なのですが、このあとのシーンでは「俺の子だ」と一人称が「俺」になるんです。この一点だけでも、二人が大人になった様子がうかがえるのです。
クロードが駆け付けると、そこには瀕死のジェアン。 ここで気になるのが、他のアンサンブルさんたちの役割です。ジェアンがベッドに横たわる準備をしている間、それを隠す役割をするアンサンブルさんたち。v字型にジェアンを囲んで並ぶのですが、先頭の人がわざわざランタンをもち、正面ではなく、そのランタンに全員が目線を注ぎます。しかも、にらみつけるように…ここではフィーバスとエスメラルダ、クロパンの役のメンバーも一緒にいます。これは何を示しているのか…わざわざランタンを持つのもとても気になっていて、そのシーンのためだけにわざわざ柱にかかっているのを外して用意しているんですよね…。クロードがジェアンのもとに向かうことで、周りが散り散りになり、そのまま兄弟の会話が上手側で繰り広げられる一方で、今度は下手側でそれぞれ座ったり、寄りかかったりしながら、二人を見つめる…というよりにらみつけています。アンサンブルさんのポーズを見る限り、ガーゴイルとは少し違って、のちの聖人の石像とも雰囲気が違います。ただ、あの場面が終わると、「ディエスイラ」と相手の過失や罪を指摘するラテン語を唱えながら、クロードをにらみつける役割に転じ、そのままクロードが
「石像の視線を感じた まるで神が見ているように」
と神への恐怖を感じた、石像の役割を担います。この流れから考えると、クロードを監視する神の使いか、それともまた石像たち、聖人やガーゴイルなのか…と考えたくもなります。しかしポーズが全体的に人間味があって、宿にいる他の客たちや店員だろうか?とも考えました。カジモドのおくるみを運んでくる女性アンサさんもその役目を終えるとそこに加わるので…
しかし、全員が狂言回しのような役割をもち、様々な役を兼ねながら物語が進行していく、この作品の性質上あまり関連付け過ぎてしまうのも本末転倒なのですがねwでも、明らかにキャストを選んで演出している箇所も数か所あるので、それも出てくるたびに紹介いたしますね。ちなみに、このシーンが終わると同時に、エスメラルダ枠は石像メンバーから退場します。
さて、少し話を戻してジェアンのもとへ駆けつけるクロードのシーン。ベッドに横になり、血の付いたハンカチを見つめるジェアン。ここで一つ演出上の見どころを一点。ジェアンの唇に注目です(笑)明らかに白くなっているのがわかると思います。この作品でのこだわりの一つがこうした細かいメイク。祭りでのカジモド、ラストのエスメラルダなど、他のシーンでもこういったこだわったメイク変更がみられます。ジェアンの唇に色味がなく、本当に白いので、まさに今にも命を落としてしまう寸前に、フロリカとの間に生まれた、我が子カジモドを救うため、ジェアンはクロードに助けを求めたわけですね。ここにまた兄弟の確執と、結局は頼れる家族はそこに一人しかいなかったという現実と、家族の絆を感じずにはいられません。
ここで、家族という点について少し考えてみると、映画版では、カジモドとフロローに血縁関係は全くありませんでしたが、四季版ではクロードにとってカジモドは弟の息子であり、血縁関係が生まれてきます。クロードがこのあと、カジモドが20歳になって迎えたあの道化の祭りの日までカジモドを育ててきたことを考えると、この二人の間には愛があったと思うのです。クロードも、ラストのシーンで、「弟を愛していた、お前と同じように…!」というセリフがあります。これは決して嘘ではないと私は考えています。この次の記事でもしっかりレポいたしますが、カジモドと接するクロードの姿は本当に父親のようで、結末を知った上で観る、二人の平和なひと時は見ていてある意味辛いものがあります。
また、四季版では語られていませんが、原作を見ると、カジモドの名前の由来は「Halfforms」つまり、「出来損ない」という意味だけではなく、「白衣の祝日」にちなんだ名前であることがわかります。これはクロード・フロロ(原作の翻訳ではこういう表記になっています)がカジモドを拾った日であり、原作では彼はこの意味を主として彼に名をつけ、「出来損ない(原作では「ほぼ」)」の意味は二番手の意味なのです。それにカジモドを拾った際にも洗礼を施すなど、クロードからカジモドへの慈悲と愛情を感じられずにはいられないのです。
そして、ジェアンからカジモドを託され、戸惑うクロードですが、一度殺そうとはしたものの、神からのような石像の視線を感じたクロードは思いとどまり、ジェアンを救うことができなかった…だからこそ、今度こそは託されたジェアンの子であるカジモドを育て、救おうと決意するのです。この時、
「正しく生きていけるように…私のように」
とクロードは歌い上げるのですが、この時、芝クロードだと、そのままカジモドの頬にキスでもするのではないかと思うくらい、そっと抱き寄せる仕草をするんです…もう…やっぱりクロードはジェアンを愛していたし、カジモドにも確かな愛情を抱いていたに違いないと何度見ても、私は思うのです。ジェアンから手紙が届いたとき、人目を忍んですぐに弟のもとへ駆けつけたクロード。そこでのやりとりを考えれば、クロードはやはり弟を愛していましたし、彼に直接会えたその瞬間には、一度失ってしまった弟と再びともに暮らし、取り戻せるという彼の安堵や幸福感を見て取ることができます。結局、時すでに遅しで、彼は再び弟を、今度こそ、永遠の別れを経験することになってしまうのですが…。そして、ジェアンを失った悲しみを、カジモドに彼なりの導きという愛情を注ぐことで、癒そうとしているのではないかと思うのです。これはこれ以降のクロードのセリフをさらに踏まえていくとまたより深く感じられるので、また再びこのように語ることがあると思います。私は端的に行ってしまえば、クロードはとても寂しがり屋というか、孤独を恐れる人だったのだと思います。
さて、ここでクロードに話題が戻ったところで、この記事の冒頭で少し述べた、クロードの価値観と軸の考えについて詳述したいと思います。
まず、クロードはノートルダムという聖域を我が家と何度も何度も言います。ですが、冒頭のシーンで、
「二人は育つ鐘をききながら」
の箇所でクロードは笑顔なのに対し、ジェアンは耳を抑え、鐘の音を煩わしそうにするのです。ここから私が考えたのは、西域への認識の違いです。聖域を出ることによって、ジェアンは自由というものを得ていました。しかし、クロードからすればそれは不幸にしか見えず、聖域という神に守られたどこよりも安全な空間から外に出ていくことは、ジェアンにとっては自由であっても、クロードにとっては自由とはなりえなかったのです。その自由を理解できないクロードにとって、幸福を求める方法が聖域からでない範囲に限られてしまうことは、もはや必然ともいえます。
この後のシーンでカジモドに対し、外に出ることを禁じてしまうクロードですが、ここまで禁じるのは、カジモドが醜いから、それだけではないように感じます。なぜなら、冒頭でも述べたように、ジェアンに対して、クロードは外に出ることを禁じてはいませんでした。しかし、その結果、クロードはジェアンを失ってしまいます。孤独に対して無意識化のうちに恐れを抱いているクロードにとって、カジモドを失うことは、ジェアンを失った傷を抉ることであり、クロードなりの救いを達成できないことになります。少し歪んだ考えになるかもしれませんが、ジェアンで禁じなかったことで失ってしまったのだから、今度は失敗しないよう、カジモドを聖域に縛り付ける考えに至ったのではないかと。聖域こそが、安心、安全を与えてくれる場所だと考えているクロードがこの結論に至るのは、やはり納得がいくように思います。
端的にまとめれば、クロードの信仰は神そのものというよりも、神に守られた聖域にいればこそ、その救いの恩恵を受け、自らは幸福でいられるという思想であり、考えの深層心理的な軸は、自らの孤独を恐れる心なのではないか、と私は考えるのです。
なんだか話がまとまったようでまとまっていないような気がしますが(笑)
クロードに関しては私はこのような見解です。
そして最後に、クロードが
「カジモド」
と名を呼ぶと、カジモドを演じる方がカジモドのメイクをしない状態で現れ、
「どこにちがいがあるのだろう」
と言いながら、その場で顔を汚し、姿勢を捻じ曲げ、カジモドに変身するわけです。また、ここで赤ん坊のおくるみとして使っていた布がカジモドの衣装で、クロード自らが着せるというのも、この二人の関係性をそっと示唆していて、本当に演出が素晴らしいなと思います。
また、ここで顔の汚し方が役者さんによって違って、海宝直人さんのカジモド(カジホウ)と田中彰孝さんのカジモド(タナカジ)は左目をつぶし、飯田達郎さんのカジモド(カジロウ)は右目をつぶす違いがあります。映画版と同じなのはカジロウだけなのですが、ここに意味はあるのかちょっと興味がそそられます。たぶん役者さんの歌いやすい、演じやすい方で選んでいると思うのですがね。それぞれ癖や仕草も全く違うので、それは追って、場面ごとに紹介致しますね。
この舞台上で顔を汚し、カジモドとなる演出もまたラストとつながっていて、深いのですが、最後の記事でまた述べたいと思います。また冒頭で述べた、自ら名乗って出てくる場合が多いという演出。カジモドの場合、名を呼ぶのはクロードですが、名を呼ばれた瞬間、灰色のローブを脱ぎ捨てます。やはりこの演出大好きですね。深い…。
さて、まだまだいくつか述べたい点はあるのですが、細かい点が多すぎるので、とりあえずここでまとめておこうと思います。
また時間のある時に追記するか、追加記事を書きたいと思います。
次の記事のテーマは「サンクチュアリ、日差しの中へ」編です。次はカジモドのことをたくさん語れるかと♪
次回の更新をお楽しみに♪