レポ第三弾行きます!
ですが今回のテーマの部分に入る前に、前回のレポで書き忘れたことを一つ、ここで追記させていただきますね!
カジモドに変身するシーン。クロードが持っていた赤ん坊のおくるみがカジモドの衣装になるんですが、その時、背中にこぶもつけるんですよ。そのこぶを下手から運んでくるのが、フロリカ枠の方。これが絶対にこだわってキャスティングしているなあという箇所の一つです。カジモドのこぶを運んでくるのが彼女というところ、なんだか意味深な感じがしませんか?カジモドの奇形は生まれつきなので、フロリカの枠の人がそのコブを持ってくるというのが、母親から渡されるというのがなんとも辛くないですか。
さて、カジモドが登場すると、舞台は鐘が下りてきて、大聖堂のカジモドの住む場所、鐘つき堂の中へと切り替わります。鐘を鳴らしながら、カジモドは鐘一つ一つに話しかけるのです。
ここで登場するのがマリー、ジャクリーン、ガブリエルなのですが、マリーとガブリエルは特にお気に入りらしく、他の場面でも名前を呼ぶシーンがあります。マリーは映画の方でも名前が出されていて、カジモドがエスメラルダに「ビックマリー」と紹介し、エスメラルダとジャリがその鐘に向かって挨拶する場面があるのです。また、原作でも、大鐘のマリーを一番に愛し、彼の恋人とまで表現されています。原作によれば、ジャクリーン(原作ではジャクリーヌ)はマリーの妹鐘だとか。
ここでも今回のミュージカル版が原作の要素を惜しげもなく含ませていて、原作の世界観を大切にしているのがうかがえます。
ここのシーンでカジモドは多くの石像達と話をし始めます。ここでアンサンブルさん達が演じる石像は、怪物や聖人など、その性質は様々。また、考えも違います。あるものはカジモドに外へ出ることを促し、あるものは約束事を破ったり好奇心を持つことを危険だと認識していたり…さきほど指摘した通り、アンサンブルさんの役割を意図的にまわしている可能性があることも考えると、この石像達の性質はどこかでつながっている可能性があるのではないかと私は推測しています。
また、石像の表現で気になるのが、フードをかぶっているかいなか等の演出の違いです。石像達はフードをかぶりながら座ってじっとカジモドのことを見ていたり、立ったまま微動だにしなかったり、話しかけてくることもあります。ただ、ここで私が考えている違いは、フードをかぶっていない状態ではカジモドと会話をしたりと、なんらかのコミュニケーションや助言をカジモドに与えていたり、シーンによっては手助けをしています。そしてフードをかぶっている状態でいるのは、石像というオブジェクトとしてそこに存在しているときです。特に、カジモド以外の他者がいるときはそのような状態で微動だにしないことが多いのですが、シーンによってはじっとその動きを目で追うことをしていたりもするのです。一部フードをかぶっていない例外箇所もあるのですが、その点については、その該当記事で言及することにいたしましょう。
いずれ石像達の性格の違いなどのそんな細かい考察もしていきたいと思っているのですが、男性1枠がカジモドの子供の一面、男性3枠がカジモドの反抗心かな?くらいしか分析ができていないので、そこは今回の記事では割愛することにいたしましょう。今回の記事においては、フードのあるなしによる、石像達のシンプルな反応と役割についてだけ言及していきたいと思います。
さて、このシーンでの注目ポイントですが、飯田さんのカジモドだとなかなか可愛い光景が見れます。男性3枠さんのガーゴイルが楽器をたたきながら、
「カジモド、外に出てみたいって思わない?あの小鳥達がうらやましくないのか?」
と一番最初に語りかけるのですが、その時鐘付き堂のお手入れをしているカジモドはそのガーゴイルのことも拭いてあげるのです。これは飯田さんでだけ見れる光景なのですが、建物の柱や鐘を愛おしげに拭き上げるカジモドの姿を見ていると、この場所を純粋に愛しているのだなというのが伝わってきます。このあと、クロードが現れ、カジモドに対し、ここは唯一お前を苦しみから守ってくれるサンクチュアリなのだといいきかせるわけですが、こうしたマイナス面の強い意味だけでなく、素直にカジモドにとって大切な場所(サンクチュアリ)なのだということが伝わってくるのです。エスメラルダがあがってきて感動するのも、単純にノートルダム大聖堂からの景色がすばらしかった、というだけではなく、ここからもあふれ出ているカジモドの愛の空間というのもきっとあったのでしょう。
さて、そんなカジモドがガーゴイル達と話をしていると、大助祭のクロードが入ってきます。このときのカジモドとクロードの関係性を超個人的にここで紹介してみます。ただ、このイメージはやはり12月の東京開幕から、9月の京都公演にかけて、変化していったものなので、あまり参考にし過ぎない方がいいかとも思います(笑)
まず、飯田さんカジモドと芝さんクロードの印象ですが、とにかく触れ合いが一番多いです。この組み合わせ限定でみれる仕草は結構多く、一番私が印象深かったのは、クロードが「ここだけだ…」と歌うところで、カジモドがひざまずいている高さまで合わせるようにかがんで、カジモドの頬に両手を添え、顔をのぞき込む仕草です。この仕草はほぼ飯田さんカジモドの時しかやらず、海宝さんのカジモドの時には私が見る限りでは見ることができませんでした。東京千秋楽近くの頃、田中さんカジモドでもたまにやるようになったかな?という感じです。田中さんデビューしたての頃は、本当に飯田さんとでは距離感が違いすぎて、見ていた私も相当違うとレポに残していました。
田中さんカジモドはそれこそデビューの日を見たんですが、そのころの印象としては、とても素直で、クロードのことを信じ切っている、三人の中では一番精神年齢が低いように見えました。ですが、公演を重ねていくうちに、その精神年齢の感覚が真逆になったように思います。東京千秋楽の頃には、一番幼く見えるのが飯田さんカジモド、大人びて見えるのが田中さんカジモドでした。そして一番悲しみの表現が深く重いのが海宝さんカジモドのイメージでした。また別の記事で詳しく特集するつもりですが、後半、田中さんのカジモドは一番状況を認識する力が強かったように見えました。一番いろいろなものを察して、大人びていて、そんな様子が芝居に組み込まれていたんです。詳しくは別の記事で紹介しますね。
クロードが入ってくると、石像たちはいっせいに動きを止め、フードを被りそれぞれの定位置へと帰って行ってしまいます。クロードに、
「石の友達ねぇ、石は話ができるのかね?」
と聞かれ、カジモドが、
「いいえ」
と彼らの存在を否定した瞬間に石像たちは移動し始めてしまいます。このタイミングも、なんだか意図的で私は好きな演出です。ここで二人で祈りを捧げ、食事を済ませた後、クロードは
「今日は特別なご馳走を持ってきた…イチゴだ」
ここでカジモドは少し本能的にイチゴを取ろうとしますが、それを
「自分を抑えるのだカジモド!」
と制されてしまいます。ここで私が考えるのは、このイベントもある意味毎年恒例だったのではないでしょうか。この日の朝は1月6日の朝。道化の祭りの日です。クロードは祭りの中止を陛下にお願いするほどですから、それほど祭りに対して前向きではないとは思うのですが、(映画版のフロローははっきりと祭りが憂鬱だと言っています)今日という日が特別な日であるという意識から、毎年カジモドにはイチゴをあげているのではないでしょうか。全体的にカジモドを守りたい、育てることに責任と愛情を彼なりの形で与えているのがわかる今作品では、このイチゴが、クロードのカジモドへの愛情表現の一つとして見ていいでしょう。あのクロードの手慣れたあしらい方の感じからしても、あのやり取りは何回かあったのではないかな?と勝手に思ったりしています(笑)
そのあと、この作品には欠かせない存在のアフロディジアスのお話になるわけですが、ここのやり取りは本当に重要で大切なシーンです。カジモドがエスメラルダと出会い、自分自身で何をしていくか、自ら選んで進んでいくにあたり、彼の存在は大きな役割を果たします。しかし、そんな彼の存在をカジモドが認識できるのは、ここのシーンと、そしてこれまでクロードがカジモドに施してきた教育の賜物ともいえます。少し皮肉に行ってしまえば、彼の教育がなければ、カジモドはエスメラルダを助けるために再び町へ飛び出していくことはできなかったかもしれないということです。カジモドにとって、クロードの存在は愛すべき存在であり、唯一自分を守ってくれるかけがえないのない存在なのです。クロードの愛情は嘘ではないと、個々でもやはり信じたいですね。
個人的な意見ですが、個々のシーンからの印象として、飯田さんカジモドには芝さんクロード。田中さんカジモドには野中さんクロードの相性がいいなと、思っております。飯田さんカジモドは本人からクロードに触れたり、近づく仕草が多いため、スキンシップの多い芝さんクロードとだと、お互いへの愛情がこのシーンはあふれ出るようで、本当に見ていてほほえましいのです。前述しましたが、飯田さんとのコンビだと芝さんの触れ合いもなぜか増えます(笑)そして、田中さんのカジモドは特にデビューしたての頃は、本当に素直な性格だったのもあり、基本的にクロードから目を離さないので、厳格なイメージの強いあまり甘やかすようなことをせず、逆にカジモドのことを注視しない野中さんクロードだとそこが際立ち、また別の二人のコンビとは違った雰囲気を見ることができました。また、彼の場合、一対一でしゃべるのが苦手な雰囲気をエスメラルダとの会話だと垣間見えるのですが、クロードと話しているときはしっかりとしゃべることができるという演技の違いもありました。これは、カジモドにとって、クロードを信頼しきっているという証拠でもあり、カジモドの中でクロードの存在がどれだけ大きいかが、ここでも感じ取れます。
ここでアフロディジアスがいえない可愛いカジモドの違いを軽く紹介しておきたいと思います。これも日によって違ったりはするのですが、私のイメージでだけここに表記していおこうと思います。
達郎さんのカジモドはアフロディジアスを忘れてしまったというよりも、「アフロディジアス」を発音できない様子が強いです、そう思った理由の一つに耳が聞こえないのを体全体と仕草で表現しているように見えたからです。
田中さんカジモドは忘れてしまって「アフロ」以降が出てこない印象を受けました。
後ここで一つ覚えておいていただきたいのが、カジモドがお話を聞くために用意するベンチの位置です。こうやって話をしようという流れになるシーンが2幕でももう1か所出てきます。このシーンでは真ん中に椅子を置きますが、別のシーンではそこではないのです。これはカジモドのクロードに対する心情の変化の証拠の一つでもあります。この詳しい言及は別の記事でさせていただきますね。
そんな二人がアフロディジアスのお説教を済ませると、タイミングを計ったように、町から人々のざわめきが聞こえてきます。ここでの注目ポイントが、実はわきに控えている石像たち。このタイミングで石像たちも楽し気に隣の石像と話をしたりしています。これは演出上使った楽器を椅子の下に戻すための動きなのですが、このタイミングにこういった芝居を取り入れることで、石像たちはカジモドの中のわくわくや期待を表現する役割を担うのです。きちんとこのタイミングでカジモドが街の様子を見に、下を除き、またクロードの
「だがこの祭りもこれで最後だろう」
あたりでカジモドが悲しむのと同時に石像たちの笑顔も消えていくので、完全にシンクロもしています。演出上の都合を物語の中にしっかりと息づかせる。本当に素晴らしいと思います。ちなみにそのあともカジモドの「陽ざしの中へ」の前向きな歌詞になるまでは石像たちの表情も硬いままで、だんだんとカジモドが街へ出ていこうと前向きになっていくにつれて、石像たちの表情も明るくなっていくのです。さらに、このシンクロをより決定づかせる大切な演出として、カジモドと石像の動きのシンクロです。その該当シーンというのが、
「世間は残酷だ…」
とクロードがソロを歌いだし、そのまま以下のような歌詞が出てきます。
「お前は醜い、気持ち悪い」
のところで、クロードは顔の前をなでるような動きをします。これをカジモドが自分の繰り返しのパートでその動きをまねるのです。そのタイミングで、石像たちもその動きをしているのです。これ、気が付いたとき鳥肌が立ちました…。ぜひ次見るときは、ここのシーンで石像にも注目してみてください♪
そして外せないナンバー「陽ざしの中へ」ここにつながる芝居が、またカジモドごとに全然違うのです。お前を守ってくれるのは、彼自身と、この聖域(サンクチュアリ)だけだ、と言い聞かせ、クロードが去ると、カジモドは一人、
「僕の…サンクチュアリ…」
とつぶやきます。これも日によって変わったりはしていたのですが、私の印象深い芝居をいくつか紹介します。
飯田さんはこのセリフを笑顔でいうことが多々ありました。これはクロードの言葉を受け止め、自分の大切な聖域としてこころからこの場所を愛しているからこそ出てくる表情かなと分析しました。また海宝さんや田中さんは今にも泣きだしそうな雰囲気だったり、床に触れながら自分に言い聞かせるような芝居もありました。こちらの方が飯田さんもこのように芝居する日もありましたし、芝居の方向性としては多かったのかな?と思います。確かにそのあとの出だしの少し後ろ向きなカジモドの歌詞にもつながりやすいですしね。ただ、笑顔から、現実を思い直した時に悲しみの感情があふれだすもう一つのパターンも感動しましたね。
あとは、飯田さんカジモドがこの歌の途中で十字を切る仕草をすることが、ある時から追加されました。これはまたクロードの教育がカジモドの中に生きていることを私としては思い知らされ、どちらかというとクロードの感情移入しやすい私としては涙せずにはいられませんでした。でもこの曲、カジモドに感情移入していても泣かずにいられないですよ…。ずっと外に出ることなく、聖域の中でしか過ごしたことのないカジモドが、勇気を振り絞って外の世界へと飛び出していく。その心を決めたカジモドは希望と喜びに満ち溢れ、本当に輝いています。そこにいるのは、醜い怪物ではなく、希望に満ち溢れた若き青年。本当に美しい純粋な姿です。
ここのシーンの記事のまとめとして、最後に一つ。輝きにあふれるカジモドをこのシーンで証明がどんどん照らし出していくのですが、カジモドが希望を胸に見つめ、そして彼を明るく照らし出す光は、開幕前の冒頭の照明と同じなのではないか?と気が付いたのです。もしかしたら気のせいなのかもしれないのですが、当時見ていた私のメモがそう語っているので、ここに記しておきますね。でも、もしこれが本当だとすれば、このシーンが作品にとってとても大切なシーンであり、また、作品としての主人公が彼であることの一つの演出にも感じられますよね。
このノートルダムの鐘という作品は、一種の群像劇であり、一人一人のキャラクターが大切な役割を担い、一人一人が主人公といっても過言ではありません。きっと一人でも欠けたら物語は進行しないでしょう。ですが、カジモドの主人公としての性質もきちんと残したうえでのこの演出。本当にこの作品が大好きだなと心から思います。
というわけで、ノートルダムの鐘観劇レポ、サンクチュアリ、陽ざしの中へ編はこのあたりで終わりにしたいと思います。
次はトプシーターヴィー・息抜き編です!!これは長くなる予感…(笑)
更新をお楽しみに!!